2016年11月17日

ザックリ日本史\(^o^)/8

支那地域のほぼ全土を瞬く間に制圧した始皇帝は優れた大国家を創ろうと模索するのですが、それが、この地では叶わぬ事だと理解するのに それほどの時間はかからず、法と力による統治と言う現在の中国と全く同じ手法によっての支配を行いました。
それと平行してエイブラハムの子孫である証としての姓「贏(エイ)」の始皇帝と同じ姓を持つ徐福をはじめとした部族の新天地探索部隊が各地へ出発しました。
数年後、徐福が始皇帝のもとへ帰ってきて何かしらの発見を報告しました。
徐福は間もなく前回を遥かに上回る大部隊で再出発をすることになりました。
それから半年が過ぎた頃、弓月国(今のキルギスタン)に最東の部分の万里の長城作りの動員がかけられ、数万人規模の部族移動が始まりました。
不思議な事に 万里の長城の西の果てよりも更に西にある国へ一番遠い東部分の工事をさせる事はもとより、国民の殆んどが家族もろとも駆り出されたのでした。
この大移動が始まって数年後 秦は滅び支那の土地は再び戦乱の世となり、日本には歴史上最大の数万人規模の難民が押し寄せてきたのでした。
不思議な事に、日本に入ってきたこの大規模な難民も、まるで砂に水が染み込んでしまうように、この国の人と生活に溶け込んでいってしまいました。
この頃、海路により九州にたどり着いていた一団は、中央構造線に沿って見つけられる水銀等の稀少金属によって、交易による富や力を手に入れながら、四国の地に強力な国家を形成していました。
この頃入ってきた多数の難民たちは、九州には既に四国の国家に負けないくらいの強力な国家があったため、部族ごとに そこに取り込まれる者や瀬戸内に点在する集落の一部になるもの、日本海側の貿易国家の一部になるもの等 部族の持つ適性に応じた場所での生活を営むようになりました。
こうしたスムーズさは、先遣隊として各地を回っていた徐福の功績によるものかもしれません(^_^)
そして、この時 日本には朝鮮半島と九州に数個、四国に1つ、出雲に1つ、飛鳥に1つ、諏訪に1つ、愛知に1つ、静岡に1つ、新潟に1つ程の強い勢力を持つ国家が出現していたようです。
特筆すべきは、この小さな島国に出現した国家達が、それぞれ異なった文化圏を構成していた事でした。
アスリート並の身体能力と貪欲な好奇心と工夫や細工が大好きな縄文人の下地に戦乱から逃れて移り住んできた平和を好む様々な文化圏からの人々の血が混じりあっていったんでしょう。
そして、この各地の文化圏には似通った表音文字があり、この時は既に漢字も浸透していました。
そして漢字の読みの日本読みである訓読みも既に確立していたのです。
ここが新説で、日本にある文字の出来上がった順序がカタカナ(実際にはカタカナの原形の文字)から漢字が出来 漢字から平仮名が作られた!
つづく(*^ー^)ノ♪







Posted by かんながら! at 09:00│Comments(0)
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