2016年11月16日

ザックリ日本史\(^o^)/7

この辺りから、情報が錯綜して色々な民俗に都合の良い話が出てきています。
出来るだけ現実味がありながら途方もない話を選んで話を繋いでいきましょう。
紀元前2000年頃アラビア半島のつけね辺りに文明をもたらしていた民俗と共に九州に帰ってきた縄文人たちは、途中途中で交易のあった都市に寄り、そこに住み着くもの、また新しく乗り込む者とで 更に血や文化が混じりあい九州にたどり着いたときは、当時の世界での最高文化水準を持つ豊かな都市を形成していきました。
そしてその人々の生活基盤に宗教がはいりこみ、精神的にもレベルの高い生活を過ごしていました。
そしてチグリス・ユーフラテス流域を追われて北へと向かった一族はエジプトに入り根をおろしたものと後にシルクロードと名付けられた道を東進した者らに分かれ、それぞれの地にて、彼らの持っていた宗教による秩序をあたえる事で彼等の安住の地をさがす旅は険しいなかにも心穏やかな東進になっていました。
東進の途中、良い土地があると そこでしばらく居住し、やがてそこに残る者と 更に東進する者らに分かれ東進の果てに大河の畔に大きな王国を造った者らが現れました。
部族の名前は「商」後に「殷」と呼ばれるようになった中国の歴史上最古の王朝でありました。
もともと質素で潔い生活を送ってきていた一族が、その持っていた優れた宗教により譲り受けた国の富貴に酔いしれ、いつの間にか民を虐げ、その怒りをかい 支那と言う地域に初めての戦乱を起こさせた王朝となり「殷」と後の世に呪われる呼び名をつけられたのでした。
この部族がこの地で行った最大の功績は、もともと彼らが持っていた文字を改良して造り上げた表意文字である漢字を造った事でしょう。この「漢字」と言う呼び名は もちろん後からつけられたモノですが、便宜上こう呼ばせていただきます。
ここで造ったことにより、皮肉にも戦乱と共に一気に広がる事になったのです。
かくして「商」を造った部族は漢字と共に四散し それぞれの地で力を蓄えていくのでした。
やがて、西の地にマケドニア出身の風雲児が現れ 彼の東征により東西の文化交流がはじまり出した頃、支那の地にも大いなる風雲児が現れたのでした!
秦の始皇帝ですね(^_^)
彼は明らかに支那の地域の人ではなく、戦いかた武器 統治の全てにおいて西の文化圏からの軍隊であり、完全なる異文化による支配を受け ここから支那の血生臭い殺戮の歴史が始まりました。
支那の戦乱は、その都度 周辺地域への難民流出が起こり、日本へも敗れた部族が 沢山流れ着いていました。
つづく(*^ー^)ノ♪






Posted by かんながら! at 03:44│Comments(0)
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